詞藻の海

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第4回 ≪いまさら純潔など≫

雪はげし抱かれて息のつまりしこと橋本多佳子 (1899ー1963)

≪ゆきはげしだかれていきのつまりしこと≫
明治 32年、東京本郷に生まれる。
18歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎はアメリカで土木建築学を学ぶ。芸術に造詣が深く和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を建てる。ここに高浜虚子を迎えて俳句会を開催したとき多佳子が暖炉の上の花瓶から落ちた椿を拾い、焔に投げ込むと、虚子は「落椿投げて暖炉の火の上に」と詠う。これに刺激されて俳句に関心を寄せる。1937年、夫の豊次郎が50歳で急逝。多佳子38歳である。夫の死を契機に多佳子は俳句の創作に全身全霊を傾けることになる。かくも人の運命は図りがたい。

掲句はこの夫との回想句である。風に吹かれて横殴りに降りしきる雪の中から、12年前に亡なった夫の面影が現れ、多佳子を息がつまるほどの抱擁愛撫をする。「雪はげし」が夫の抱擁のありようを物語っている。また「雪はげし夫(つま)の手のほか知らず死す」とも詠い、空閨から豊次郎を深く愛していたことが偲ばれる。過去の追憶のうちにも、今は亡き夫への鎮魂の歌でもある。

多佳子には、「祭笛吹くとき男佳かりける」「蛍籠昏(くら)ければ揺り炎えたゝす」「白桃に入れし刃先の種を割る」「月一輪凍湖一輪光あふ」「乳母車夏の怒涛によこむきに」「月光にいのち死にゆくひとと寝る」「いなびかり北よりすれば北を見る」など秀句ぞろいだ。絶筆となった句に「雪の日の浴身一指一趾(し)愛(を)し」がある。これから死出の旅立ちをする女の最後の湯浴みを意識したかどうかは知らないが、手指の足指の一本一本をも愛おしいのだ。残んの色香が漂う。命への愛着でもある。この句と掲句の≪雪はげし抱かれて息のつまりしこと≫を合わせて鑑賞すると違った趣となるだろう。

夏みかん酸つぱしいまさら純潔など鈴木しづ子( 1919ー?)

≪なつみかんすつぱしいまさらじゅんけつなど≫
鈴木しづ子は、処女句集『春雷』の「跋にかえて」で「句は私の生命でございます」と述べているように、彼女にとって句の創作活動は生きていく源泉であった。総じて虚構は微塵も感じられない。己の肉体から迸る真実の奔流である。己の境遇や情念を知性からではなく肉体そのものから自然に表白している。

掲句を理解するには、この句が詠まれた時代背景を知る必要がある。1950年6月25日に朝鮮戦争勃発した。その翌年の7月に発表されたのがこの句である。この頃しづ子は、岐阜でダンサーとして働きアメリカ兵ケリー・クラッケ海軍伍長と恋仲であった。当時の日本は戦争に敗れて、戦前の価値観が否定されたとはいえ、このような女性性に関する表現は顰蹙を買ったのである。

江宮隆之は『風のささやき?しづこ絶唱』(河出書房新社)で、この句は「自分の純潔への嫌悪ではない。これは、戦争という不純物への嫌悪であった」。「『夏みかん』の句は、字あまりが二つもあるが、しづ子にとっては酸っぱい夏みかんに、ケリーが出撃する戦争への皮肉と不安をこめていた。もちろん、しづ子の心の中にある寓意が、誰にわかるものでもなかった。が、それでもしづ子には、この俳句は心の叫びとして、大事な一句であった」という。戦争という不条理を如何なる論理によっても正当化はできないのに、女の性の解放を不純だと誰が批判できようか。戦争への痛烈な批判の句でもあるのだ。彼女も戦争の犠牲者として、ひとり女を生きたのだ。彼女の句に、「山はひそかに雪ふらせゐる懺悔かな」がある。己の来し方を振り返ると、もはや清算できない過去がある。懺悔の思いが泉のごとく湧き出す。その救いを自然という大きな存在に求めている。純白な音もなくこんこんと降りしきる雪山に、何もかも抱かれて癒されている。

彼女の代表的な句に、「まぐはひのしづかなるあめ居とりまく」「欲るこころ手袋の指器に触るる」「実石榴のかつと割れたる情痴かな」「娼婦またよきか熟れたる柿食(た)うぶ」「情慾や乱雲とみにかたち変へ」「黒人と踊る手さきやさくら散る」「体内にきみが血流る正坐に堪ふ」「コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ」「菊白し得たる代償ふところに」など、解釈に多様性があり誤謬を引き起す句が多い。あまりにもセンシュアルな描写に嫌悪を抱くあまり、基地の米兵に春をひさぐ女として喧伝され、「性愛俳句」「パンパン俳人」「娼婦俳人」などと在らぬレッテルを貼られ、 1952年、 33歳の時から今日至るまでその消息は杳として知れない。現在生きていれば 90歳になる。

羅や人悲します恋をして鈴木真砂女(1906ー2003)

≪うすものやひとかなしますこいをして≫
千葉県鴨川市に旅館吉田屋(現・鴨川グランドホテル)の三姉妹の末娘に生まれる。本名まさ。22歳で日本橋横山町の雑貨問屋の山本幸三郎と恋愛結婚。女児可久子(文学座女優)に恵まれるも、幸三郎は花札賭博に狂った挙句に失踪。真砂女は実家に戻りその後離婚。1935年、実家の旅館を継いだ姉が急性肺炎で急逝する。その翌年真砂女30歳の春、両親の説得で不承不承で姉の夫と再婚し、旅館の女将となる。≪使はるる身より使ふ身春寒き≫。真砂女は「夫は良い人だ。だがどうしても好きになれない」という。≪とりかねる夫の機嫌雁かへる≫や≪夏帯や夫への嫉妬さらになく≫と詠う。31歳のとき吉田屋に宿泊した7歳年下の海軍士官と運命的な出会いをする。この士官が九州へ転属となると家出して彼の後を追い、この恋は真砂女71歳、士官が亡くなるまで続くのである。≪夏帯や一途といふは美しく≫や≪何ごとも半端は嫌ひ冷奴≫があるが、真砂女の心のありようを知ることができる。彼女は自分の感情の趣くままに人生を謳歌したのかも知れない。彼女は決して抑制の人ではない。≪つきつめてものは思はじさくらもち≫。50歳の時には離婚して≪冬菊やノラにならひて捨てし家≫、銀座に小料理屋「卯波」を開く。≪あるときは船より高き卯浪かな≫から屋号を採った。

掲句を真砂女は、「人妻が恋をして幸せであるべき筈はない。このため何人かを苦しませ悲しませた。そして自分も相手も」と自解している。布地が薄く透ける着物を着ると、人の道を外れた恋、人を悲しませ自分もまた悩んだ恋が想い起こされる。しかしこの悲しみは爽やかで深くはない。恨みを買うような悲しみなどでもない。この恋の悲しみは、恋の情念がゆるやかに凪いだ時期に詠まれたのだろう。「羅や」が悲しみを薄めて、効果的だ。実は悲しみに苦しんだ人などいなかったかのような爽やかさがいい。

真砂女は「後悔したこと、ありません」という。≪今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ)≫と今の境涯に満足する。真砂女80歳の詠。≪あるときは船より高き卯浪かな≫と詠い、人生の荒波を乗り越えた人のたどり着いた境地。

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜桂信子(1914- 2004)

≪ゆるやかにきてひととあふほたるのよ≫
1939年に結婚するも1941年夫が急逝する。信子27歳、以後独身を通す。掲句は夫七十七郎の死後7年の女盛りに詠んだ句である。

「ゆるやかに着て」が女の官能の揺らぎを、「蛍の夜」が美しい幻想の世界を想起させ、絵巻物語を観ているようだ。胸もとをわずかに開き気味に、薄物の和服をゆったりと装って、心を許しあった愛しい人とこれから逢うのである。約束の場所は、せせらぎの音が響き渡り、蛍が光を放って飛び交っている。女の怪しい官能の優美さ、蠱惑的な響を漂わせている。しかし爽やかだ。この句は、境涯俳句というより、むしろ文学的創作の匂う句ではないだろうか。

掲句と近似の世界を詠った≪やはらかき身を月光の中に容(い)れ≫がある。何かの物語を読んでいるようだ。やわらかい女体に光を浴びるのではなく、光の中に溶け込むように身を歩み「容れ」ている。かくまでに女の肉体を美しく官能的に描いた表現力は見事というほかない。

さらに女体を詠った≪窓の雪女体にて湯をあふれしむ≫がある。鄙びた温泉宿には静かに雪が降りしきっている。豊かな女体を、湯をたっぷりと張った湯船に沈めると、音を立てて湯がこぼれ出た。白い肌は湯に暖まり、かすかに桜色に染まっている。窓外は音もなく雪が降っている。静寂に女は包まれ、時の過ぎゆくままに至福を味わっている。

信子は女性性を詠むことで戦後の俳壇に一石を投じたが、年を重ねてから≪野に蜜のあふれて村のひるねどき≫のようなゆったりと満ち足りた句も詠っている。夏野に花々が咲き乱れ、蝶や蜜蜂が花々に恋をしている。村の老人たちは野良仕事から手を休め昼寝をしているのどかな景である。

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