詞藻の海

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第6回 ≪未完の日暮れ≫

白梅や父に未完の日暮れあり櫂未知子(1960−)

≪しらうめやちちにみかんのひぐれあり≫
父への限りない敬愛の念がこめられている。夢の実現できる人は稀にしかいないであろう。娘にとって、やり遂げたいことが沢山あったに違いないと思っている。父は本懐を遂げたと満足していたかも知れない。それを「未完」と断言したところに面白みがある。父へのあたたかい思いがひしひしと伝わってくる。そこはかとない哀愁も漂う秀句に違いない。病中の父を詠んだ句に「つややかな管つけ父は朧なり」「吹雪く夜は父が壊れてゆくようで」がある。哀切のあふれたつらい句であるが、そこはかとなくあっけらかんとしている。 作者には次のような句もある。
≪佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり≫ 諧謔にとんだ楽しい句だ。夫婦の間になんらかの諍いがあったのだろうか。その夜は、布団を離して女の抵抗を無言のうちに示した。佐渡島は歴史的に見て、罪人を島流しにした島である。鎌倉時代の1221年、幕府倒幕に敗れて承久の乱に連座した順徳院、1271年に鎌倉幕府を批判した日蓮もこの島に配流されている。今夜は流人のように島に流されて寂しさを味わったらいいでしょう、とつれない。 ≪春は曙そろそろ帰つてくれないか≫ 後朝の歌は、和歌では女が別れを惜しんで未練がましさを男に向けた。百人一首に採られてある待賢門院堀川の「長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ」はそのよい例であろう。櫂の句は「そろそろ帰つてくれないか」と、女が男の未練がましさを、きっぱりと断ち切っているところが俳諧たるところ。堀川の歌と比べると男女の思いの変化がおもしろい。

熱燗の夫にも捨てし夢あらむ西村和子(1948−)

≪あつかんのつまにもすてしゆめあらむ≫
熱燗の酒を手酌で呑んでいる夫の姿に、そこはかとない哀愁が漂い、この人も妻のため子のために捨てた夢があったのではないかと斟酌している。そこには夫への感謝とほのぼのとした愛情がある。「夫にも」であり「妻にも」でもある。「夫に」だけ捨てた夢があるのではなく、妻にも同じように、子と夫に尽すために諦めた夢があったのだ。「熱燗の」が「冷酒の」なら、この句の印象は一変する。
「白梅や父に未完の日暮れあり」は、娘からみた父の未完の夢であり、掲句は妻からみた夫の夢への諦めである。これが人間の日常でもある。
作者の句に、≪明易や愛憎いづれ罪ふかき≫がある。明け急ぐ夏の夜、愛情と憎悪とはどちらが罪深いのか、と自問する。憎悪が罪が深いのは明白であることはわかっていても、作者は煩悩しているのだ。夫や子供への情愛の深さのうちにも、一抹の憎悪が通り過ぎて行く時がある。

妻がゐて子がゐて孤独いわし雲安住敦(1907−1988)

≪つまがいてこがいてこどくいわしぐも≫
男とはかくまでに孤独な存在なのか。最愛の妻がいて、子供がいてもなぜかいつも独り寂しい。なんの不満もなく満たされた生活のなかにも孤独感は突如としてやってくる。この孤独は、人間存在の根源的なものであろう。鰯雲を眺めていてそこはかとなく湧き起こった孤独感だ。妻がいて子がいて、どうしてこんなに孤独なのかと自問しているようでもある。作者の代表句に、≪てんと虫一兵われの死なざりし≫がある。「八月十五日終戦」の前書きがある。対戦車自爆隊で訓練中に終戦の詔勅を聞いた。「敗けた口惜しさより、ああこれで命が助かったと思うと急に涙があふれ出した」という。そのとき、天道虫が掌に飛んできたのか、それとも銃身に止まったのだろうか。鉄兜に似たこの小さな命は、自爆隊の一員として散華するかも知れないはかない命と重なったのだ。終戦の詔勅によって幸運にも助かった命への安堵である。

過ぎし日のしんかんとあり麦藁帽中山純子(1927−)

≪すぎしひのしんかんとありむぎわらぼう≫
西行法師の歌に、≪笠はありそのみはいかになりぬらむあはれなりける人の行く末≫がある。蓑笠が門口に架かっていたのでしょうか。その古びた埃まみれの蓑笠を着けていた人は今はどのような境涯にあるのだろうか、と人の世の無常を感歎しているのだ。掲句も、どこかこの西行の歌に通じるものを感じるのである。氏は結核で胸を病み、夫君を若くして亡くしている。その夫の麦藁帽が「深閑と」どこかに置かれているのでしょう。作者は、この麦藁帽をみるたびに夫の懐かしい面影のなかに生きているのだ。孤閨の寂しさのなかにも、こよなく愛しあった夫婦の温もりも伝わってくる。

ふと思ひ出せしが忘れ柚子湯出る有馬朗人(1930−)

≪ふとおもいだせしがわすれゆずゆでる≫
原子物理学者であり、東大総長、文部大臣を務めた人である。現在は俳人として活躍中である。この人にしても物忘れは避けることが出来ない。老いるとは斯くの如し。像は浮ぶが言葉が出てこない。人の顔は浮ぶが名前が思い出せない。こんな経験は誰にでもある。冬至には柚子湯に入る風習は今もある。あかぎれやしもやけに効くという。山葵、山椒の芽と共に香辛料の一つである。冬至には柚子湯にゆっくりと浸って、寛いでみてはいかがでしょうか。「忘却」といえば思い出すのが、1952年(昭和27年)に菊田一夫のNHK連続ラジオドラマ「君の名は」である。冒頭のナレーションで「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓(ちこ)う心の悲しさよ」と語りかけ、この後に古関裕而作曲の「君の名はとたずねし人ありその人の名も知らず今日砂山にただひとりきて浜昼顔にきいてみる」と歌が始まる。人間は忘れてしまいたい思い出も「忘れ得ずして」、何かしらが引き金となってふとその苦い思い出を再生してしまう。本当に忘れ去るには「健忘症」になるしかないのかも知れない。掲句はこんなに深刻ではないのだが。類句を以下に挙げておく。≪秋風やわすれてならぬ名を忘れ≫―久保田万太郎≪なんの湯か沸かして忘れ初嵐≫―石川桂郎≪火が恋しなにかにつけて忘れごと≫―永井龍男

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