詞藻の海

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第7回 ≪鳥の鳴き声≫

啄木鳥や落ち葉をいそぐ牧の木々水原秋桜子(1892−1981)

≪きつつきやおちばをいそぐまきのきぎ≫
秋桜子の代表句で、赤城山での5句連作の一つ。「啄木鳥が木肌をつつく音が聞こえる。その音と協奏するかのように、冬が近づく牧場の木々がしきりに葉を落としている」。「き」音と「つ」音が快適なリズムを刻んでいる。句の内容といい、歌の流れといい、一読して覚えられる響のいい句だ。

自選自解を見てみよう。「きのうと同じく麗しい日和であった。前橋口との別れ路に近く、大きな水楢が立っていたので、その樹陰に休憩した。付近の木に啄木鳥が来ていて、幹を叩く音が静かな山気の中でよくきこえた。その時は、詠んでみる気もなくて捨てておいたのだが、翌年の夏のことと思う。ふと、それを詠みたくなって,なんの苦もなく詠みあげた。苦労がなかったので、自分でも特に気にもとめていなかったが、後にいろいろほめてくれる人があったので、次第に愛着を覚えるようになった。明治時代の俳句とちがって、明るい外光を採り入れたのがよかったのであろう。印象派風の油絵が好きで、展覧会を見ては勉強していた効果が、「桑の葉の」(註:桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな)の句や、この句に至って現われたわけである。どこも推敲していないから、すらすらと読むことの出来るのも気持ちがよい」 『水原秋桜子自選自解句集』(講談社)

このように、実際に経験したことを後になって回想してできた句であることがわかる。また、西洋風の風景画を思わせる見事な句である。ところで田辺聖子はこの句について、「さながら高原の爽涼の気が頬を打つような句である」と述べている。『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』(集英社文庫)

谺して山ほととぎすほしいまま杉田久女(1890−1946)

≪こだましてやまほととぎすほしいまま≫
この句は、一度『ホトトギス』の雑詠に投句した時は没となった。しかし大阪毎日新聞、東京日日新聞主催の「日本新名勝俳句」では、同じ選者の虚子によって、金賞を受賞した。10万3千余句の応募があった。先の秋桜子の「啄木鳥や落ち葉をいそぐ牧の木」、後藤夜半の「滝の上に水現れて落ちにけり」、阿波野青畝の「さみだれのあまだればかり浮御堂」も風景院賞を受賞した。山本健吉は『現代俳句』で、「女らしくない雄渾な句である」、また、大岡信は『精選折々のうた』で、「結句『ほしいまま』の生気と華やぎに、女流俳人の孤峰久女の本領があった」と書いている。

この句ができた経緯を久女は、『杉田久女随筆集』の「日本新名勝俳句入選句」で、詳しく述べている。「…行者堂の清水をくんで、絶頂近く杉木立をたどる時、とつぜんに何ともいへぬ美しいひびきをもった大きな声が、木立のむかふの谷間からきこえて来ました。それは単なる声といふよりも、英彦山そのものの山の精の声でした。短いながら妙なる抑揚をもって切々と私の魂を深く強くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつつ声は次第に遠ざかって、ぱったり絶えてしまひました。…私の魂は何ともいえぬ興奮に、耳は今の声にみち、もう一度ぜひその雄大なしかも幽玄な声をききたいというねがいでいっぱいでした。けれども下山の時にも時鳥は二度ときく事が出来ないで、その妙音ばかりが久しい間私の耳にこびりついていました。私はその印象のままを手帳にかきつけておきました。…其後、九月の末頃再登攀の時でした。…再び足下の谷でいつしかの聞きおぼえのある雄大な時鳥の声がさかんにきこえはじめました。ほととぎすはおしみなく、ほしいままに、谷から谷へとないています。じつに自由に。高らかにこだまして。その声は従来歌や詩によまれたような悲しみとか、血をはくとかいう女性的な線のほそいめめしい感傷的な声ではなく、北岳の嶮にこだましてじつになだらかに。じつに悠々と又、切々と、自由に−」。英彦山の絶頂に佇んで全九州の名山をことごとく一望におさめうる喜びと共に、あの足下のほととぎすの音は、いつ迄も私の耳朶にのこっています」。

ちなみに、「英彦山(ひこさん)」は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1200mの山。新潟県の弥彦山、兵庫県の雪彦山とともに日本三彦山に数えられる。また、山形県の羽黒山、奈良県の熊野大峰山とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の修験道場として武芸の鍛錬の場であった。

鵯のそれきり鳴かず雪の暮臼田亜浪(1879−1951)

≪ひよどりのそれきりなかずゆきのくれ≫
雪の降り積もった夕暮のとばりがおりはじめてきた。あたりの寂寞を破って鋭いひよどりの鳴き声が響き渡ってきた。耳を澄まして聞き入っていたが、二度と聴くことはなかった。寂寞とした夕暮のとばりが濃くおりてきた。
亜浪(あろう)40歳の作。神奈川県中津で新年の句会があり、会場となった旅館での詠。亜浪の代表くに、≪郭公や何処までゆかば人に逢はむ≫がある。「野山をしばらく歩き続けた。どこかともなくカッコウの鳴き声を聞いて、しばらく人を見かけなかったことに気がついた」

作者は「人生は覇旅の如し、全くそれに相違ない。人生の究極は<寂し味>だ。誰が何といっても、これだけは鉄律としての響を持つ」、「旅人こそ私の心の影である」といっている。鵯に旅の寂しさを感じとり、郭公に「寂し味」を求めている。「何処までゆかば人に逢はむ」は、孤独寂寥の心からの叫びのようだ。芭蕉に「この道や行く人なしに秋の暮」がある。芭蕉晩年の寂寥の境地を吐露した秀句である。亜浪の「郭公や何処まで…」は、芭蕉のこの句を踏まえての作であろう。
ちなみに、鳥の鳴き声を集めたサイト『鳥の鳴き声館』で、いろいろな鳥の鳴き声を聞くことができますので試みてください。
http://migichan.anz.jp/torisounds01.html

鶯の身をさかさまに初音かな榎本其角(1661−1707)

≪うぐいすのみをさかさまにはつねかな≫
「鶯が木に身を逆さまにとまって、初音を鳴いている」。この句に森川許六は「鶯という句はよのつねになりがたき題なり。晋子(其角)が『身をさかさまに』と見出したる眼こそ、天晴れ近年の秀逸とや言はむ」と賞賛するのに対して、向井去来は「鶯の身を逆にするは戯れ鶯なり。戯れ鶯は早春の気色にあらず。初音の鶯は身を逆さにする風情なし」としている。このように蕉門の間でも賛否が分かれていた。

榎本其角は、松尾芭蕉の第一の高弟。作風は、芭蕉のわび・さびとは対照的な洒落風である。大酒のみで性豪放で毀誉褒貶の多い人であり、47歳で没した。≪十五から酒を呑出てけふの月≫「琵琶の名手の曹保は十三歳から琵琶を学んだが、私の芸である酒は、十五歳から飲み始めたのだ」。≪闇の夜は吉原ばかり月夜かな≫「月のない闇夜でも、吉原だけは、まるで月夜のように不夜城の火を燈している」、また次のように全く反対の意味もなる。「月は美しく夜を彩っているのに、吉原だけは闇夜のようだ」とも解釈できる。どこで切って読むかによるわけだ。其角の遊び心の冴えた句である。

郭公なくや雲雀と十文字向井去来(1651−1704)
郭公なくや雲雀と十文字

≪ほととぎすなくやひばりとじゅうもんじ≫
「ほととぎすが中空を横切りながら鋭く鳴き過ぎて行く。雲雀は地上から中空の高みへと上昇して、ほととぎすと雲雀は十文字に交叉しながら通り過ぎて行く」。向井許六はこの句を去来一代の秀句と賞賛している。

去来は、師の芭蕉の教えを忠実に書きとめた『旅寝論』『去来抄』で、後世に大きな影響を与えた。

私は昨年の5月と正月に京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)を訪れたが、そこにある去来墓の小ささに少々驚いた。また、落柿舎も想像していたものとは比べ物にならないくらい程のこじんまりとした草庵であった。芭蕉は元禄4年(1691)4月18日から5月4日まで、この落柿舎に滞在した。その時に記録したのが『嵯峨日記』であることにも深い感銘を受けたのであった。ところで、高浜虚子はこの去来墓を詣でたときに、≪凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり≫ と詠っている。実際に去来の墓をみてなるほどと納得したのであった。

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