詞藻の海

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第9回 ≪邯鄲の夢≫

義朝の心に似たり秋の風(野ざらし紀行 芭蕉41歳)

≪よしとものこころににたりあきのかぜ≫
貞享(じょうきょう)元年8月(1684年)、芭蕉41歳の時、俳人千里(ちり)を伴い翌年4月までの約9ヵ月間の初度の文学行脚の旅に出る。江戸深川を出て伊勢、伊賀上野、吉野山、大垣、桑名、熱田、名古屋を旅して伊賀上野に戻ってここで越年し、明けて奈良、京都、大津、鳴海を巡り木曽路から甲州路に入り、貞享2年4月末、江戸に戻った。この紀行文が『野ざらし紀行』またの名称を『甲子吟行(かっしぎんこう)』という。1684年が60年ごとに来る甲子(きのえね)に当るためにこの名が付けられた。この旅を契機に、51歳で生涯を終える10年のうちの4年9か月を旅に暮らすことになる。この旅の目的には、前年他界した伊賀上野の母の追善供養のための里帰りも兼ねていた。≪手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜(母の白い遺髪を手にとると、涙がこぼれ落ちる。その涙で、秋の霜のように消えんばかりである)≫の追善句を詠んでいる。

『野ざらし紀行』は、≪野ざらしを心に風のしむ身かな≫から始まり≪夏衣いまだ虱を取り尽さず≫で終わる。全部で43句からなる。なかでも≪道のべの木槿は馬に食はれけり≫≪秋風や薮も畠も不破の関≫≪海くれて鴨の声ほのかに白し≫≪山路来て何やらゆかし菫草≫≪辛崎の松は花より朧にて≫などが秀句である。
さて掲句は、岐阜県不破郡関ヶ原町山中にある常盤御前の墓で詠んだ句である。『野ざらし紀行』のくだりはこうだ。
「大和より山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。今須・山中を過ぎて、いにしへ常盤の塚(義朝の妻常盤御前の墓)あり。伊勢の守武(荒木田守武・伊勢神宮の神官で、山崎宗鑑とともに俳諧の創始者と仰がれた)が云ける「義朝殿に似たる秋風」とは、いづれの所か似たりけん。我もまた、義朝の心に似たり秋の暮」

源義朝は、頼朝・義経の父である。1156年7月の保元の乱では平清盛とともに後白河天皇方について父の源為義、弟の頼賢・為朝を敵にして、崇徳上皇方を破った。その三年余後の1160年1月に藤原信頼と組んで平治の乱を起こすも平清盛軍に破れ、東国に逃れる途中、尾張で譜代の家来長田忠致に謀殺された。
この「義朝殿に似たる秋風」は、荒木田守武の「守武千句」の中にある次の付句を指す。

月見てや常磐の里にかかるらん
(月を見ながら歩いていると、常磐の里に通りかかった)
義朝殿に似たる秋風
(この常磐の里に吹き荒ぶ秋風は、常磐御前に心を寄せた義朝殿と似ている)

守武の付句の一字を「心」と変えただけで、俳諧として生まれ変えてしまう芭蕉の腕の冴は見事としか言いようがない。芭蕉は、常盤御前の墓に吹き寄せる秋風が、父や兄弟を敵にして戦い、またあるときは妻子と別れ別れになって敗走し、最後には平治の乱に破れて家来に殺されてしまった義朝の心が、なぜか荒涼とした秋の風に似たところがあると嘆じたのである。 

秋風や薮も畠も不破の関(野ざらし紀行 芭蕉41歳)

≪あきかぜややぶもはたけもふわのせき≫
この句は、前掲句「義朝の心に似たり秋の風」に続いて「不破」としてある。『野ざらし紀行』の中でも最高傑作。不破の関は、672年に起こった壬申の乱を契機に673年に天武天皇の命により、都・飛鳥浄御原宮を守る目的で不破関、鈴鹿関、愛発(あらち)関の三関が設置された。関西、関東の呼称もこの不破の関の誕生がもとになっていると言われている。桓武天皇の789年には関所は廃止になっており、歌枕の地として、荒廃した哀感を和歌や俳諧によく詠まれるようになった。掲句も摂政太政大臣・九条(藤原)良経(1169−1206)の≪人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風≫(『新古今和歌集』)を踏まえての作。(関守の住んでいない不破の関屋の板廂は、すっかり朽ち果ててしまい、今はただ秋風通り過ぎるばかりである)

良経の頃はまだ関所の名残として、人は住んでいないが、荒廃した関屋が存在していたことになる。しかし、芭蕉がこの地を訪れた時は、関屋の面影は何一つなく、辺りは農耕を営む藪と畠と化していた。その諸行無常の情景を、荒廃の言葉も感情も表現するのでもなく、客観写生のままに万物流転を表現したところが見事である。まさに、端倪すべからざる芭蕉の魔力である。

笈も太刀も五月にかざれ紙幟(奥の細道 芭蕉46歳)

≪おいもたちもさつきにかざれかみのぼり≫
『奥の細道』はこうある。
月の輪のわたしを越えて、瀬の上といふ宿(しゆく)に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ庄司が旧館なり。麓に大手(大手門)の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落し、またかたはらの古寺に一家(いつけ)の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先づあはれなり(けなげな、勇ましい)。女なれどもかひがひしき名(けなげな評判)の世に聞えつるものかなと袂(たもと)をぬらしぬ。墜(堕)涙(だるい)の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとどめて什物(宝物)とす。

「二人の嫁」とは、戦死した継信と忠信の妻で、息子二人を失って嘆き悲しむ義母・乙和御前を夫の甲冑を身に着け、その凱旋姿(写真参照)を演じて慰めたという。この逸話は、幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本集「やしま」に語られている。このように、武士道の鑑である佐藤一族の旧跡を訪ねた芭蕉は感涙を抑え切れなかったのである。「堕涙の石碑も遠きにあらず」とは、中国の晋時代にできた故事。襄陽の大守・羊?(ようこ)の徳を慕って碑を建てた。この碑をみると皆涙を流すことからの呼び名で、なにも中国へ行かなくとも眼前にある、ということ。「寺」とは、佐藤一族の菩提寺である医王寺で、ここに義経の太刀と弁慶の笈が宝物として所蔵されている、ということだが、実際には太刀はここにはなく、弁慶の書写したお経だったらしい。また、寺も参観していない。したがって、この句は芭蕉の潤色であるが、芭蕉の佐藤兄弟への熱い思いを寄せた供養句と受け取りたい。

なお、継信は屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守るために身代わりとなって戦死する。弟の忠信は頼朝と仲違いになった義経が吉野山に逃れたとき、僧兵と戦い無事に脱出させている。後に六條堀川の判官館で壮絶な自刃を遂げた。また、義経はイケメンとして伝説化しているが、実際には出っ歯で猫背で小男だったという。日本人の判官贔屓による整形手術らしい。

夏草や兵どもが夢の跡(奥の細道 芭蕉46歳)

≪なつくさやつわものどもがゆめのあと≫
源義経(1159−1189)が藤原泰衡の急襲を受けて、衣川の高館で妻の郷御前と愛娘を斬殺し、館に火を放って自害したのは1189年4月30日のことであった。僅か10人の義経たちはあっけなく敗れてしまう。享年30歳の若さである。泰衡もこの5ヵ月後には、関ヶ原の戦いよりも10万も多い28万の頼朝の軍勢に滅ぼされるのである。芭蕉がこの高館の跡を訪れたのは、この事件から丁度500年後の1689年5月28日のことである。義経の居館のあった高館は廃墟と化し、あるものは辺りに生い茂る青い草であった。義経が夢に見た功名も藤原三代の栄華の夢も邯鄲(かんたん)の一睡の夢の如くに虚しいばかりである。まさに諸行無常である。『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」の無常観に通じるし、鴨長明の『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたりためしなし。世の中ある人と栖と、またかくのごとし」にも同じ思想が流れている。

さて、『奥の細道』のこの項を、名文の誉れ高い筆致で鑑賞しよう。
三代の栄耀(清衡、基衡、泰衡)一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(義経の居館、ここで自害)に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城(秀衡の三男・藤原忠衡=和泉三郎の居館)をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関(高館下にある古関)を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣をすぐつてこの城にこもり(それにしても義経が選りすぐった忠義の武士たちがこの高館にこもって)、巧名一時の草むらとなる(その功名も一時のもので今はその跡は夏草の生い茂る叢と化している)。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」(国は滅びても山河は昔と変わりない、城は荒廃しても夏になると草は青々と生い茂る)と、笠うち敷きて(笠を敷いて腰をおろし)、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

芭蕉は、杜甫の『春望』の詩「国破れて山河あり、城(じょう)春にして草木深し」をヒントに、奥の細道の後に確立する「不易流行」の理念を確立したのではないだろうか。『野ざらし紀行』の「秋風や…」と共に、「夏草や…」の句を得て、自然の永遠不変の真理と、時の流れの中で流転する人間の姿を捉えたのだ。『奥の細道』の最大の収穫であった。

むざんやな甲の下のきりぎりす(奥の細道 芭蕉46歳)

≪むざんやなかぶとのしたのきりぎりす≫
掲句は細道の旅で、今の石川県小松市の多太神社に参詣した折に斎藤実盛の遺品である兜や錦を披見して詠んだ実盛への鎮魂句である。この兜は源義朝から、錦は平宗盛から下賜されたという。義朝の弟が義賢(よしかた)で源(木曾)義仲の父である。義朝の子に、義平・頼朝・義経らがいる。源義仲は父義賢が頼朝の兄義平に大蔵合戦で殺された時はまだ2歳であった。幼い義仲を木曾の中原兼遠(義仲の養父となる)に密かに送り届けたのが実盛であった。義仲にとっては実盛は命の恩人である。

実盛は、寿永2年(1183年)、平維盛らと木曾義仲追討のため出陣するが、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍に破れ、敗走するも加賀国で篠原の戦に敗北。この戦闘で実盛は老齢の身を押して白髪を黒く染めて奮戦するが義仲の武将・手塚光盛によって斬首される。首実検では実盛とは分からず、池の水で洗うと白髪が現れて命の恩人である実盛の首であることが判明した。この辺りの話は『平家物語』の「倶利伽羅落」「篠原合戦」「実盛」のに詳しい。
『奥の細道』はこうある。

この所、太田の神社に詣づ。真盛が甲・錦の切あり。往昔(そのむかし)、源氏に属せし時、義朝公より給ふとかや。げにも平士(ひらさむらひ)のものにあらず。目庇(まびさし―兜の前部の庇)より吹返し(ふきかえし―両側から耳のようにでて後方に反り返っている部分)まで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社(やしろ)にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
実盛が討死に後、木曾義仲が実盛の死を悼み供養の祈願状に兜と錦の遺品を添えて、この太田神社に奉納した事情や、木曾四天王の一人、樋口次郎がその使者として来た事などが目の当たりに見るように縁起に書いてあった。なお、樋口次郎は実盛とは旧知の仲であった。

さて、掲句は世阿弥の謡曲『実盛』の一節「樋口参りてただ一目見て、涙をはらはらと流いて、あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」からの引用であるが、この台詞のくだりは、『平家物語』の「実盛」からの拝借である。義仲は手塚の取った首が実盛ではないかと疑い、実盛を知っている樋口を呼び、これは斎藤別当であろう、と問えば、樋口次郎はただ一目見て、「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と言う。義仲は「それならば今は七十にも過ぎ、白髪になっているはずだ。鬢や髭が黒いのはどうしてか」と言えば、樋口次郎は涙をはらはらと流し、髪を黒く染めた経緯を語る。樋口の言うとおり首を水で洗うと、白髪となり実盛であることを確認するのである。

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